ORIGIN · HISTORY
ご由緒
西寺尾村の鎮守として、幾星霜の祈りを紡ぎ来たる。
社の起り、
そして村の鎮守へ。
当社の創建年代は明らかではありませんが、古くよりHACHIMAN八幡大神を奉斎する社として、旧西寺尾村(現・横浜市神奈川区松見町・西寺尾町一帯)の鎮守であったと伝えられます。
江戸後期に幕府が編纂した地誌『新編武蔵風土記稿』(文化・文政年間成立)の橘樹郡西寺尾村の条には、村内の神社として「八幡社」の名が明記されており、当時すでに村の信仰の中心として存在したことが確認できます。
明治の神仏分離以降は純然たる神社として祭祀が整えられ、明治六年には村社に列格。以来、例大祭・七五三詣・招魂社慰霊祭など、年中行事を通して地域と共に歩んでまいりました。
八幡神社 年譜
創建(伝)
正確な創建年代は明らかではありません。源氏ゆかりの八幡大神を奉斎する社として、武家・庶民ともに信仰を集めてきたと伝えられます。
銅造如来坐像の造立
本地仏として銅造如来坐像(後の横浜市地域文化財)が造立されたと推定されます。神仏習合の時代、本殿と一体の信仰圏を形成していました。
『新編武蔵風土記稿』に記載
幕府編纂の地誌『新編武蔵風土記稿』橘樹郡西寺尾村の条に「八幡社」として明記され、村の鎮守としての位置付けが確認されます。
神仏分離
明治政府の神仏分離令に伴い、旧御神体であった銅造如来坐像は社務所厨子に秘蔵。以後は神道の祭祀の場として再編されました。
村社列格
近代社格制度のもと、村社に列せられ地域の鎮守としての公的な位置が確立。氏子は旧西寺尾村の住民を基礎としました。
関東大震災 被害
関東大震災により拝殿・石灯籠等に被害を蒙る。氏子有志の手による仮修復を経て、翌年の例大祭は無事に斎行されました。
戦中の祭祀
太平洋戦争期、出征兵士の武運長久祈願が連日奉じられました。地域より出征し、還らなかった英霊も多く、戦後の招魂社建立へと繋がってまいります。
横浜大空襲
横浜大空襲の戦禍は松見町にも及び、一部の境内施設に被害がありました。しかし本殿は奇跡的に焼失を免れ、戦後の地域復興の心の拠り所となりました。
招魂社 遷座
地域より出征し還らなかった戦没者諸霊を奉斎するため、招魂社が境内に遷座・再建。以来、文月十五日の慰霊祭として継承されています。
本殿の整備
戦後の復興期を経て、社殿・境内施設の整備が進められ、現本殿の基礎が整えられました。氏子会による組織的な奉賛の始まりでもあります。
氏子会 組織化
松見町・西寺尾町の氏子有志により氏子会が正式に組織化され、祭礼・境内管理・地域文化事業を担う体制が整いました。
祭礼道具の奉納
氏子崇敬者の奉賛により、神輿・太鼓・神楽装束等の祭礼道具が新調・修復。例大祭の神輿渡御が一新されました。
文化財登録
旧御神体であった「銅造如来坐像」が、横浜市地域文化財として登録。市内でも古い金銅仏の一つと評価されました。
境内整備・継承の歩み
参道・手水舎・境内照明の補修、社殿屋根の葺替、境内緑化、文化財の保護啓発事業を進めています。地域と歩む鎮守として、次代へ祈りの場を受け継ぎます。
『新編武蔵風土記稿』
に記される八幡社。
『新編武蔵風土記稿』は、昌平坂学問所地理局が編纂した、相模・武蔵を中心とする地誌書で、橘樹郡(現・川崎市・横浜市北部)の記録を多く含みます。
橘樹郡西寺尾村の条において当社は「八幡社 村ノ鎮守ナリ」という旨で紹介され、その社地・祭神・付属社などが簡潔に書き留められています。江戸期における村落と神社との有機的な関係を示す、貴重な記録です。
村の鎮守としての役割
近世の村社会において、鎮守の社は祭礼・人生儀礼・寄合の場として機能し、村人の生活と一体のものでした。当社もまた、氏子の安寧・五穀豊穣・国家鎮護を祈る祭祀の場として、村の暮らしを見守ってまいりました。
主要参考文献
- 『新編武蔵風土記稿』巻之七十二 橘樹郡之十五 西寺尾村当社は「八幡社 村ノ鎮守ナリ」と記載。社地・祭神・別当寺の関係が記される。
- 『神奈川県神社誌』近代社格制度における当社の位置付け・氏子区域・例祭日が詳述される。
- 『横浜市神奈川区史』松見町・西寺尾町の歴史的沿革と、当社の地域における役割が紹介されています。
- 『横浜市の文化財』銅造如来坐像の文化財登録に関する詳細——計測値・様式解釈・保存状態の所見。
※ 本ページの記述は上記文献、並びに氏子会の口伝・古記録に基づきます。学術的な引用・出版物への転載をご希望の折は、事前に社務所までお問合せ下さい。